全力中年てるちゅー

久留米のほとりの眼鏡屋の日常です。

26日目 父に感謝。母に感謝。

私は現在47歳である。

紆余曲折を経て七年前から自営業の道へ。

現状に満足しているかといえば、借入金の返済も沢山残っているし、コロナ禍で来店されるお客様も減っているし不安要素が多いので、満足出来る状況ではない。

しかし、

あのまま会社員を続けていたら後悔していたかなと想像出来るので現状に後悔はない。

あえて言えば、もう少し金銭と時間に余裕があると大満足である。

 

私の父も自営業で大工である。

広島県竹原市という穏やかで小さな町で暮らしている。

私の家族は父と母、兄が2人妹が2人の私を含めて7人家族。

思春期の頃の友人の親は会社勤めの方が多く、友人達も含め綺麗な身なりをしているが、父はお世辞にも身なりが整っていると言いえず、父の仕事を聞かれても濁して返答していた。

 

父は苦労人だったと聞かされていた。

大東亜戦争の影響により母方の実家のある竹原市疎開したが、高校生の頃原因不明の病に侵され体重が激減、30キロ台まで痩せ細り生死の間を彷徨い大阪の病院で一命をとりとめたのが19歳の頃。

健康になる為に、学歴社会ではない大工という道を選び今も大工として活躍している。

 

父は父親の存在の記憶がないらしい。

ほぼ自分の力で生き抜いてきた。母親と姉兄の暮らす家を建て、私達家族の家を建て、大工の工場を建て、資材倉庫を建て、兄は関東の私大である青山学院を卒業し、次男は高校卒業後家を出て三男である私も福岡の私大に行かしてもらい、長女も次女も埼玉へ。

5人の子供を育て上げる事がどれだけ大変だったのか恥ずかしながら理解出来ていなかった

父の素晴らしい所は悲壮感を漂わせる事なく自分も楽しんでいる事である。

今の私はどうだろうか?

父のように自分の人生を楽しめているのだろうか?

家を出て既に32年経った今、父の偉大さ母の偉大さが理解出来る。

作業服をいつも汚して厳しくも子供を育て上げた父と母を心から誇りに思う。

 

理想に少しでも近づけるように私の残りの時間を使いたい…。

 

今日も依存症克服出来ませんでした。